「ちょっと竜の旦那!一体どうし―…。」
崩れ落ちた布団の山と、その中に埋もれるようにして座り込んでいる政宗の姿を目にして、佐助は絶句した。
口の端が切れて血がにじんでいる。
喧嘩がめっぽう強い彼のそのような姿は、佐助も、それ以外も、誰一人として見たことが無かった。
「かすがちゃん、今」
「Noisy.」
彼女の名前自体が今は地雷と化しているらしく、その響きを聞いただけで政宗は佐助に掴みかかった。
胸倉を締め上げられ、さしもの佐助も焦る。
それはいつもの戯れのようなものではなく、彼に余裕が無いことを知らしめていた。
「…帰れ…」
反論を許さぬ声音で告げられ、佐助は諸手を上げて部屋を出た。
律儀に扉を締めようとして、気がつく。
きちんとノブをひねって開けなかったのだろう、金具が少し曲がっていた。
(あー…こりゃあ酷い。よく竜の旦那あれだけの傷ですんだなぁ)
とても女性の力と思えぬほどの強さだ。
これならば万に一つも、暴漢に襲われる事は無いだろう。
否、襲われても返り討ちに出来るだろう。
なんとかは犬も食わない、ということわざを不意に思い出して、佐助は割烹着を脱いだ。
関わったら馬鹿と痛い目を見る。それならばとことん放って置こうではないか。
「おーい右目さん、旦那ー!帰るよ」
何があったと問いただされるも、佐助は知らぬ存ぜぬを通したまま二人と共に玄関を出た。
笑
(…なぜ、こんな…)
首にぐちゃぐちゃな結び目で繋ぎ止められたリボンをしたまま、かすがは桜並木を歩いていた。
ほどこうとすればほどける。
けれどそれをしないのは、曲がりなりにもあの男から貰ったものだからだ。
それでもむしゃくしゃすることに変わりは無い。
かすがの中で、捨ててしまいたい衝動とこのままつけていたい静止の念が渦巻き、混ざり合う。
今までのどの飼い主とも違う対応の数々に、かすがは混乱していた。
(これでいいんだ。…今までどおりだ。)
もともと自分は愛玩犬としての役割を果たせない、欠陥品のようなものだ。
それならばと身のこなしを買われて始めた別の仕事さえ、満足にこなせず。
結局のところ、行き場所などはなから存在しないのだ。
(それでも)
あの男に、自分の醜いところを見られてしまう前でよかったとは思う。
これ以上惨めな姿をさらすくらいなら、あの目が不信に淀むのを見るくらいなら、こうして孤独に帰るほうがまだいい。
くらくらと酒に酔ったような浮遊感を抱えて、ただただ薄紅の絨毯を踏みしめ歩く。
素足にはまだコンクリートは冷たい時期だったため、花弁の仄かな助けをありがたく感じた。
「・・・・・・!痛・・・っ」
前言撤回。
花びらが隠していた硝子に足を切り裂かれ、かすがはうずくまった。
どくどくと流れる鮮血に胸が痛む。
殴ってしまったあの男の口元に血がにじんでいた。そのことが今更ながら後悔の念を駆りたてる。
あの場で我慢して、『ああそうだ。私はおまえのものだ』と認めていたらどうだっただろう。
まだ、あの暖かい場所にいられただろうか。
笑いと暖かな湯気の満ち溢れたあの室内で、楽しそうにふざけ合う男の顔に見惚れていたのは確かだ。
彼があれほど心を許していたからこそ、自分も言葉を交わす気になったのであって。
裏を返せばたった数時間の間に、それほどあの男のことを信用するようになってしまっていたということだ。
血液の熱さ、命の脈動が己にもあることを噛み締めながら、かすがはじっと足を見つめる。
これしきの怪我で死ぬようなことは無いだろう。
だが、流れる紅と共に何かが身体から抜け出てしまうような気がした。
---*---*---*---
泥棒が入ったかのように荒れた、私室。
その中心で相変わらず政宗は仰向けに寝そべっていた。
かすがが出て行ってから一体どれくらい経ったのだろう。
まだ僅かに残っていた日も完全に隠れ、ただただ薄暗い天井のみが漠然と視界を覆い尽くす。
何も変わりはしない、いつもと同じ日常だ。
この後、重い身体を引きずって風呂に入り、湯上りの身体を冷ましながら適当なテレビ番組に目だけ向ける。
そしてそのままソファで寝るか、気力があればベッドで眠りに落ちるか。
しかし今それをできる心境ではなかった。
(たった一匹の野良犬に、何てザマだ。)
眠りも安らぎも出来ない気持ちのまま、天井と睨みあいをする。
先程まで鼓膜を揺らしていた涼やかな声、視界の端できらめく金糸のような髪、あの仏頂面のどこに隠されていたのかと思う程の柔らかな笑顔。
脳は彼女の記憶ばかりを反芻する。
(そもそも)
己ではなく幸村に初めに笑いかけたという事実にかっとなってしまったのが悪い。
あげく“モノ”扱いして、冷たい言葉を吐いて。
失ったのも自業自得、と以外に言いようも無いではないか。
空しさと空虚を感じながらも、ぐるぐると巡る思考。政宗は未だその打開策を見つけられないでいた。
「……あー…くそ」
居たたまれず、ごろ、と寝返りを打つと何か固いものに頭を打ち付けた。
元凶を怒りに任せて掴み上げると、薄汚れた布だった。元々は白かったのだろうそれは、赤黒い色や泥の色が染みて見るも無残な色合いだ。
それがかすがが身につけていたものだと思い出すのに時間は掛からなかった。
「Shit.俺の家に忘れてったんだから、届けてやんねぇとな」
口調と裏腹に、顔には笑みが浮かんでいた。
さわさわと、木々が優しく語り掛けるようにざわめく。
今宵の月は爪の先程の細さで、それでも物の形が分かるほどの光をその身から放っていた。
なれど、どこへ行ったか。
皆目見当もつかない探し人の姿を照らし出すほどには眩くない。
春といえどもまだ初春、夜気は肌をぴりぴりと刺すように冷たかった。
かすがが纏っていた己の服は薄手のパーカー。あれでは風邪をひいてしまう。第一彼女は靴も履かずに飛び出していったのだ。
急く気持ちと弾む息を抑えつつ、足取りを予測する。
何処か行き場所があると、まして定まった家があるとは思えない。
(…調子狂うぜ。折角のpartyで喰わなかったせいで、腹も減ってるし)
薄紅の花弁が、一心に月の恩寵を受けて舞っている。
春になったらさくらんぼがつくか、と花より団子な思考に苦笑しながら、ふと思い当たった。
かすがを、見つけた場所。
桜が咲き誇る、あの並木道。
政宗のマンションから歩いて数分のところにあるそれの入り口に、彼は今まさに立っていた。
斜め下を見やれば、数m先で金糸がなびいている。
両足を抱えて座り込み、花びらに埋もれるようにしているのは。紛れもなく、かすがだった。
「dog girl.…何やってんだよ。」
やっと見つけた喜びと、安堵で手から布が滑り落ちる。
ガシャン、と派手な音を立てて墜落したそれに初めて違和感を覚えた。
そういえば、この布を見つけたときも頭に固いものがあたった感触がしたはずだ。
持ち上げていても布にしてはやけに重いと――…。
「拾うな。」
ぴしゃ、と言い放つ凛とした声音に、温かみは、ない。
かがみかけた政宗が不自然な姿勢で固まる。
それならばと近づこうとすると、今度は“来るな”と拒否された。
口で拒絶の言葉を紡ぐ割に、自分で止めに来ようとしないかすがを不審に思った政宗は、じっと彼女を見つめる。
よく見ると、右足をかばうように軽く持ち上げていた。
足元の花弁は一部、紅に染まっている。
「っおい!怪我してんじゃねえか!」
「いいから来るな!もう私に構うな!」
平静を保てなくなったのか、明らかに震える声を耳にして、政宗は舌打ちした。
「Get off my back! 俺に命令してんじゃねえよ」
びく、と震えるのを無視して、ずかずかとかすがの前まで足を運び、いとも簡単に抱き上げた。
夜気にさらされた肌は驚くほど冷たい。
「や、やめろ!」
「だから命令すんなっつってんだろうが」
手足をめちゃくちゃに動かして、何とか腕を逃れようともがくかすがを一旦降ろし、渾身の力で抱きしめた。
ぐえ、とかえるが鳴いたような呻き声が聴こえたが、構わず締め上げる。
終いにかすがが音を上げた。
「…頼む、離して…」
ようやく腕を解いた政宗が、片口をあげて意地悪く笑った。
その向こうに痩せ細った三日月が見える。
どことなく夢見心地なままのかすがの首に手をやって、政宗はばつが悪そうに言った。
「首輪、嫌なんだろ。 もうしないから勝手にどっか行くな」
そのままリボンの酷い結び目を解こうとするものだから、かすがは急いでその手を掴んだ。
「っいや…!」
「Hum…?」
「や、そ、そのだな…別に構わないというか、私が嫌なのはそこではなくて」
しどろもどろになりながら顔を紅潮させるかすがを見て、政宗は首をかしげる。
他に、気に障るようなことをしただろうか。
何度も口をパクパクとさせながらかすががやっと告げたのは、思いも寄らぬことだった。
「…名前、おまえは私に教えてないだろう。何一つ知らないのに、おまえの物になどなれない。それだけだ。」
それはつまり、何か1つでも知らせれば、そうなってもよいということなのか。
はたまた、よく回りきらない舌が勝手に紡いだ繰言か。
段々と自分の頬も熱くなってくるのを感じて、政宗はもう一度かすがを抱きしめた。
「伊達、政宗だ。Don't forget.」
月下でさえ分かるほどあからさまに紅い耳を見つめて、かすがは微笑う。
今日一番の、ひいては彼女の中で一番の笑みだったことを、政宗は知らない。
全ては、桜花と月夜のみぞしる。